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小学生の時以来、30数年ぶりに女川に行った。

女川は母の出身地。でも母やその姉妹は本家とは絶縁してしまったらしい。理由は知らない。

自分にとっての女川の思い出は、街からやや外れて坂を上ったところに位置していた、という曖昧な記憶しか残っていないその本家しかない。港の方に住んでいた母と仲の良かったおばさんの家は無くなってしまった。

深夜バスで石巻に早朝に着く。石巻から路線バスで女川へ向かう。その道程、道はボコボコ、家は更地になっているか朽ちたまま放置されているか、そんなところが多くて泣けてきた。仙台市内ではもうこのような場所を観ることはなかなか無いのに。

女川はもうただの巨大な更地になってしまった。港を再建するための工事車両で狭い道路は埋め尽くされている。駅だった場所の周辺にはもう何もない。山の上の奥の方の運動公園に役所や仮設住宅がある。

バスは運動公園行き。というか女川の中でバスが停まれるような場所はもはや高台の病院とここしかない。終点の運動公園入り口で地図を観る。野球場があるので行ってみると、そこには野球場の形は残っているが、グラウンド部分は舗装され、そこには仮設住宅が建っていた。照明、客席、ベンチ
本部席は残されているので野球場だって判別出来るけど、もはや野球をやるための場所ではない。

自分はいつも楽しみのために野球をやる。勝ったとか負けたとか言って喜んだりムカついたりする。スコアボードがあって、ベンチがあって、本部席があって、客席がある、そんな、設備の整った野球場なら毎週でもそこで野球をやりたい。でもここではそれは叶わない。ここには3階建ての仮設住宅が建ち並んでいる。この仮設住宅は著名な建築家がデザインしたらしい。設計について何か言うつもりはないけど、ここに住んでいる人たちはなにも好きこのんでここにいるんじゃないはずだ。
仮設住宅っていうけど、ここが終の住処になる人のだって少なくないだろう。

自分が休日に野球が出来るという意味、当たり前だけどこの世の中はバランスの上に成り立っている。でも、誰かがハッピーじゃないのに、他の人はそのことを知らずに、あるいは知らない振りをしてハッピーな振りしてるっていうのは、決して良いことではない。

小学生の時の少ない記憶を辿って本家を探してみた。本家は坂を上ったところにあったはず。そして家の向かいは墓だったはず。坂を上るような高い場所は街の奥にいくつか残されている。いくつかの坂を探していろいろ歩いていたところ、本家を見つけた。さらに、おじさんが庭いじりをしていた。でも話しかけることはしなかった。ここに来るのは30数年ぶりだ。なぜ母や兄弟がこの本家と絶縁したのかは知らない。理由を知ったところで自分が対処できるほど簡単なことじゃないんだろうからいっそ知らない方がいい。

不思議な経験だった。良いのか悪いのかよくわからない経験だった。ここに来ることが女川に来る理由のひとつだった。女川についての記憶は、ここと駅の近くで週刊プロレスを買った本屋しかない。本屋がどこにあったのか憶えていないし、もう本屋は無い。だからここだけが自分に残っている女川の記憶だった。30数年の間に、いくつかのことがもう修復できないほどに変わってしまった。だけどおじさんは庭の花に水をやっている。無くなってしまった街の奥の方で。