1026
まあいろいろあったのか、かなり久々に十二指腸が痛くなる。
久々に、っていうのは、もう7〜8年ぶり。この数年は殆ど痛くなることはなかったんだけど、今回かなり痛くなり、ロケハンを予定していた台風の日に相当痛くなる。ロケハンなんか行ける状況じゃないなって思ってたら台風でロケハンは延期、家で寝てたけど、普段は断続的に痛むところがずっと痛い。当たり前だけど、さすがに我慢出来なくなり、医者へ。処方された薬で2日程でほぼ痛みは消える。
そして7〜8年ぶりの胃カメラ。以前は経口だったのが、現在では経鼻が基本となっている。経口に比べれば楽とは言え、顔の穴から内蔵に棒を突っ込むんだから違和感はあるに決まってるし、麻酔のせいもあるんだろうけど、気力が無くなる。
これはもう一般的に言われていることだけど、十二指腸潰瘍の原因の多くはピロリ菌にあるらしい。今回内視鏡検査と同時にピロリ菌の検査も行った。以前駒沢病院に行った際、十二指腸潰瘍になるようなひとはどうのこうのって、性格に難があるようなことを言われた。ストレスがどうとか生活サイクルがどうとか言ってたくせに現在では菌が原因てことになってる。あの医者テキトーな事言いやがって!ストレスを溜めないようにとか勝手なことを言うけど、いまの世の中そんな生活できるわけがない。
今回胃カメラの結果が良くなければそのまま草津に行って時間湯で直そうと思ってたんだけど、その必要もなくなったというわけだ。だからといって草津に行かないってことじゃないけど。
0807
7月の半ばにこのブログがぶっ壊れてしまった。画面が真っ白、管理画面のログイン画面も真っ白。理由は全くわからない。何日かログインしてない間にそういう症状になってた。しかも複数のブログが同じ症状に。こんなこと、はじめてだ。調べたら、その症状はプラグインやテーマが関係していることが多いらしい。でも具体的には全く身に覚えがない。
いろいろ修復を試みてなんとか直した気になったけど、完全には直っていないようで、データをある程度復旧して同じものを作り直した。
何だったんだろうか。しかもログインしていない間に壊れていたらしい。最近定期的にある、ブラジルからのアクセスが何か関係あるのだろうか。
0722
こないだ草津に行った時は割と舞い上がってて、時間湯なんて単なる風呂の入り方に過ぎなくてしかも熱いから我慢して3分入る、程度のことだろうと思ってた、だけど時間湯のホームページがあり、それをみたら、時間湯っていうのは単なる風呂の入り方ではなく、もっと奥が深く、むしろ哲学や思想の域にありそうだ。
風呂の入り方に哲学がある、そんな世界があるのか。
こないだは、もちろん1泊じゃ全然足りなかったけど、入り口のドアに手をかけた程度だったらしい。
0721
たとえば車を運転しながら高速道路沿いに建っているマンションかなんかの室内が見える。目の前を交差する電車の中でもいいけど、その中にいる人って、みんな物語があって、しかもそこそこハッピーにみえる。箱庭にみえるからなんだろうか。
だけど、逆の立場だったらどうだろう。自分がその中にいたら、たぶん、特にハッピーでも何でもない。
自分はつまらなく、他人には物語があるって思いたいのだろうか。
0624
限界を超えないと観られないもの、感じられないことがある。だけど限界を超えるのは精神的、肉体的にもかなりキツイことは間違いない。
0622
NHK「イナサ」の3作目「それぞれのイナサ~風寄せる集落 9年の記録~それぞれのイナサ」を、やっと観られた。なにせテレビがないもんで。
前2作ももちろんいいんだけど、今回もとても良かった。今回は前2作のアウトテイクみたいな素材と2012年以降の録り下ろしの素材だけど、今回は録り下ろし素材のシーンに大きな意味があったと思う。ラスト近くの、眞優子さんが自分がガソリンスタンドで働くことの意味を話し、そしてラストシーンでのさちきさんと吉男さんのイナサのうた。このうたが録れたってことがこの番組の意味のひとつだろうと思う。番組なんていいシーンがひとつあればいいといえるぐらい。
第1作でさちきさんはイナサのうたを唄った。それは、日が暮れた貞山堀で吉男さんと眞優子さんと一緒にウナギの稚魚を捕るシーンだった。だけど2作目では忘れた、と言い、唄わなかった。
そして今回、それは、もう何もなくなってしまった家の跡で漁に使う網を直しながら。うたが背景に流れる中、シーンが切り替わり俯瞰で家の跡が写ると、そこにはさちきさん、眞優子さん、優子さん、秀子さんがいる。とても意味のあるシーンだった。それは、言い換えれば、2012年後半以降だからこそ録れたシーンなのかもしれないと思った。
時は、流れてゆく。人を置き去りながら。だけど、それを忘れまいと、そこにとどまろうと、とどめようとするひとがいる。そのひとが口ずさむうた。別に上手くはないんだろうけど、それはとてつもなく美しい。
荒浜の人たちと接して、教養というものを感じた。教養とは経験して身に付くものだと。決して勉強するものではない。彼らには、自分みたいなものが決して得ることの出来ない、かけがえのない教養がある。
0610
杞憂であればいいけど、これは終わりの始まりというやつもしれないとも思う。
ある店、本店が無いいま、2号店やフランチャイズ店に行くしかないんだけど、そこらには、本店にあった、自分が大好きだった雰囲気のようなもの、それがあったからこそその店に行く理由があったというものは感じられない。
大袈裟に言えば、それはスピリットって言ってもいいんじゃないかって思うけど、
自分が好きだったのは本店なのであって、店名が同じ他の店ではない。そう考えると、あの店、あの食べ物はすでに終わってしまったのだとも言える。
0605
楽しければいいじゃん、ていうのは要するにファシズムの始まりなんだと思う。
0526
時は金なりっていうことばがある。だけど時間というものは金じゃ買えないものだし、買ってはいけないものだっていう気がする。
荒浜まで車で4〜5時間かけたり、相模に行ったり、鶴見の焼肉屋にまで行くのは、それはやはり東京にはないものがそこにあるからなのだし、また移動している時間と移動そのものも好きだからだ。不思議と、移動時間を無駄だと感じたことはないのだ。
よく、相模に車で1時間ぐらいかけて、っていう話をすると、そんな遠くまでいくんですか、って言われる。普通はそうなんだろう。なにもそんなに遠くまで行かなくてもって。だけどそう遠いと感じたことはない。むしろ、そんな近くにそんなに良いところは無いとも言える。そこに行かなければそこのことは本当にはわからない、物事はすべてそうだと思うけど。勝手にそう思ってるといえばそれまでとも言えるけど。