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4年前に友人が亡くなった。たまたま彼が亡くなる3日前に、彼に会った。その時の彼は死にそうに見えた。ちょうど、ある理由でかなり落ち込んでいたらしかった。

彼は落ち込んだままその3日後に心臓発作で亡くなった。亡くなったことに関しては驚きはなかった。こいつ、死ぬんじゃねえか、そう思ったから。だけど、ショックだった。こんな終わり方ってありなのかって。彼が悩んでいた理由、その原因を多くのひとは知らなかったようだったけど、自分はたまたま知っていた。その時に思った。友人がそんなに悩んでいても自分はそのことを全く知らなかった。それって友達って言うのだろうかって。そのことが後ろめたかった。とても申し訳無かった。それ以来、自分だけがハッピーになっても意味ないんじゃないかって思うようになった。自分の周りもハッピーにならなければ本当のハッピーとは言えないんじゃないかって思うようになった。

あるとき、彼が80まで生きたいって言ったのをいまでも憶えている。最近毎日のようにそれを思い出す。彼はもっと生きたかったはず。だけどその半分も生きられなかった。

その友人の話と荒浜とは全く違うけど、同じようなことを思う。世の中がオリンピックだアベノミクスだって方向に勝手に走り、忘れ去られてるかのような荒浜とその人達。そういう中で自分だけがハッピーになっても何の意味もないっていうこと、というか、そこに意味を求めちゃいけないと思うようにもなった。ほんの少しでも荒浜のこと、荒浜とその人達が象徴するような何かについて想ってもらいたい。

生きてるのか生かされてるのかたまたま死んでないだけなのかなんなのかわからないけど、まだ生きてる、息してるってことは、二酸化炭素を垂れ流す以外にもやらなくちゃいけないことはあるはずだって思うようになった。150%で突っ走るぐらいがちょうどいいって思うようになってきた。でないといろんな人達に対して申し訳無いっていうか。

そして世の中は絶妙なバランスで成り立っている。いまあるもののたったひとつでも欠けてしまえば、もうこの世の中はいまと同じものではなくなってしまう。そのことを2011年3月に強く思い知らされたはずだ。良くも悪くも、あの時からいろんなことが変わったと思う。いまあるものをより大事にしたいと思うようになったし、縁というものを強く感じることも多い。最近特に、その中に自分がいる感覚がある。

札幌でのplaces & spacesも幡ヶ谷のRe:Birth Studioも今度のスリラバでの写真展もそういったことが繋がって成り立っていると強く感じる。自分というものは自分ひとりで成り立っているのではなく、周囲との関係があって初めて社会の中で自分でいられるはずだ。それを大切にしたいとも思うようになってきた。次の写真展についてもそういう気持ちがある。