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エリオット・スミスにはおそらく2度会ってる。だけど彼はその後アル中になって自殺してしまった。
その後、あるときたまたまどっかで元彼女に会ったときに、たけちゃんが撮ったから死んじゃったじゃん、殺したでしょ!って言われた。彼女はそういう冗談をよく言ってたのでそれももちろん冗談が半分なんだろうけど、全く笑えなかった。むしろかなりのショックだった。正直泣きそうになった。彼女がなぜそう言ったかというのは、自分が撮ったのがそのひとの最後の写真になった、というひとが何人か続いて、オレが撮ったひとは死ぬらしいって一時期言われたことがあったからだったと思うけど。もちろん、そんなこと名誉なことじゃない。殺すぐらいのつもりというか勝負のつもりで撮ってるけど、殺すことが目的じゃない。そんなこと当たり前だけど。
自分はエリオット・スミスが好きで彼の写真を撮った。自分にとってとても好きな写真だしブックにも入れてる。だけど逆の立場で言えば、そんなことは本人にとっては憶えてもいないだろうし、なんらいいことにはならなかったわけだ。自分が好きで会って撮ったひとは、そのひとにとっても自分が撮ったことがほんの少しでも何かポジティブなことになればいいといつもそう思ってるけど、そんなことはこっちの勝手な思い込みでしかないってことだ。そういうことをグサッと言われて思い知らされた。人生の中でたった10分ぐらいの時間を共有しただけ。自分はそのことをその後もエリオットスミスに会ったよ、って言えるけど、せいぜいその程度のことであって、自分が彼のその後の人生を背負って生きていけるわけじゃない。そんなの当たり前なんだけど、それはやはり虚しい。無力感ていうか、無力に決まってるんだけど、どっかで僅かながらの期待とか希望とか、根拠のない積極的な何かを持って生きている訳だけど、時にこういうタイミングでそれを真正面から突きつけられる。それは写真にその写真以上の意味とか何かを求めてるからかもしれないと、最近思う。