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昔から、バチが当たるとか因果応報とかっていう言葉が好きじゃない。
よくないことが起きると何かと理由をつけたがるけど、物事が起きることに対して理由をつけたくない。特に自然現象に関しては。
いろんなことに意味をつけるのは人間の悪い癖だと思う。
昔から、バチが当たるとか因果応報とかっていう言葉が好きじゃない。
よくないことが起きると何かと理由をつけたがるけど、物事が起きることに対して理由をつけたくない。特に自然現象に関しては。
いろんなことに意味をつけるのは人間の悪い癖だと思う。
久しぶりに原稿書いた。
シンコーからでたレゲエの本でリー・ペリーについて書いた。
もう何年も原稿書いて無かったし、もう書くつもりも無かったから断ろうかとも思ったけど、担当が辻口だったし、好きなリー・ペリーだったしと、まあいっかっていう感じで受けた。本全体の総監修が藤川さんだったということも大きかった。この人が監修だったら間違いないと。
なぜ原稿を書かなくなったかといえば、パブリックな場でネガティヴなことをわざわざ書きたくないし、自分は文章上手くないし、原稿料って割に合わないぐらい安いし、、、、、
書き上げた原稿、やっぱ直された。リー・ペリーの最初のリリースは1965年の「チキン・スクラッチ」のシングルっていうのが定説だと思ってたんだけど、実はその2年前にシングル出してたんだそう。そんなこと初めて知ったよ! 藤川グレート!って感じ。
また過去に新宿リキッドルームで撮影した写真が初出ということも嬉しかった。しかしモノクロで小さい扱いだったのが残念ではあったけど。でもまあ、あの撮影はこのためだったのかと思うとちょっと感慨深い。
送られてきた本を読み返して、やっぱ、もう原稿は書くまいって思った…………………..
こないだ友人宅に行った。目的は、金八パート2の再放送をダビングするため。もう1年も前の放送なんだけど、やっと都合が合い、行けた。ダビング終了後、友人の娘と外にご飯食べに行こうって話になったけど、娘が外出したくなかったらしく、家でご馳走になった。豚肉の生姜焼きだった。
娘が学校から帰宅して近所のテニスクラブにテニスやりにいくからって観に行った。で写真撮ろうと思ってカメラも持って行ったんだけど、道路越しに中のコートをじっと観てるともう完全に変態って思われるだろうからささっと戻ってきた。写真撮るなんてとんでもなかったな。盗撮だと思われるに決まってる。何なら通報されてたな。
思えばちょうど先々週ぐらいに豚肉の生姜焼きが無性に食べたくなって桜新町のめおと食堂に初めて行ってみた。ここ、前から気になってたんだけど、行く気はしなかった。理由は、いっつも客がほとんどいなくてなかなか入る気がしなかったからなんだけど。
新町の定食といえばきさらぎ亭がメジャーなんだけど、個人的にはきさらぎ亭はあまり好きじゃない。焼き魚とか味噌汁とか、実はあんまりおいしくないと思ってる。雰囲気とマーケティング優先の店だと思う。確かに行くとなんかホッとする感はある。あと店員がビミョーに可愛いような可愛くないような、って感じの子が多いのもマーケティングの勝利だと思ってる。
で、きさらぎ亭には生姜焼きは無かったってこともあり、めおと食堂に行った訳だけど、まず店に入った時、老人の父と息子とで店を切り盛りしていた。切り盛りっていっても客は自分だけだったが。あの広さの店内だから、普通入った途端に気づくはずなんだけど、息子はなかなか気づかない。ていうか気づかないふりしてるんじゃねえかってぐらいこっちを見ない。父が自分に気づいて案内してくれた。味は良い意味で普通だった。もっとおいしくないと予想してたんだけど、普通においしい。帰り際、またも息子は作業中の振りしてオレを無視してる。で、すいませーっん、って言ったら息子が父を促して、ほら会計だよ、みたいな感じで。父は陰にいたので見えなかった。なんなの?そんなに接客したくないの?この親子、接客したくないようにしか思えない。オレが食べてる時はずっと二人で喋ってるのに会計になると途端に見て見ぬ振りだ!
で、友人宅でご馳走になった生姜焼きは美味かった。なんでもタモリのレシピがどうのこうのっていうやつらしくて。蜂蜜とみりんと酒で作って油は使わないんだって。
金八のDVDは結局マックでは観られなかった。ウインドウズだったら普通に観られるのにな。1年待ってたんだよこの日を!どうにかならないもんなのか。
オレのアタマの中では絶えず放送されてるんだけども。
10月のイベント以来、5ヶ月ぶりに荒浜に行く。
またも日帰りで、運転9時間、現地滞在3時間、魚の配達2時間て感じだった。
荒浜小学校の体育館とプールが取り壊される事が決定し、そのお別れ会が2月17日に行われ,25日からは取り壊し工事が始まるのだという。取り壊される前に一度行っておきたかったし、何よりも昨年10月の仙台でのイベント以来行けてないのだからなんとしても行かなくてはならなかった。3月が来ればあれからもう2年になる。集落の入り口のコスモ石油ももう取り壊されたし、津波の痕跡を残している大きな建物がもう無くなってゆく。雪に覆われた荒浜も観たかったんだけど、車ではちょっと危険だったかな。そういえば、セブンイレブンが2月21日に再びオープンしたらしい。建物を建ててはいけない地域だからプレハブだが。表面上はいろいろなことが進んでいるようにも見える。表面上は。
現在の荒浜は無人の状態はほぼ無く、工事関係者、パトロール、ボランティア、そして当然住人の方が何かしら作業を行っている。
海水浴場の入り口だった辺りに慰霊碑がある。現在その右後ろに慰霊碑と観音像を製作中。いまの慰霊碑は仮なんだそう。まだ土台しか出来てなかったけど、随分立派な造り。こんな立派な物造る金があるんだったら他に使い途があるんじゃ?そう言ってた人がいたし、それはそうだろうとも思う。なにひとつ進んでないとさえ思えてしまうことが多いのだから。ただこの観音像は地元の石材店の方が寄贈したものなんだそうだ。
天気は曇り。というかほんの少し雨が降っていた。予報をみればこの天候は予想出来たけど、寒い。当然、色が無い。でも色が無いなら無いその色を撮ればいいんだけど。それが写真の最も難しいところであることには違いない。
そもそもこの企画は2011年の暮れに會田から話をもらった。で2012年の3月から1年間かけて荒浜に通い撮影したものを発表しようと言うものだった。つまり、今回がその1年間の最後の撮影ということになる。
2011年の暮れから2012年の2月ぐらいまではロクなことがなかった。仕事でも個人的にも。それはまあ自分に責任がある訳だけども。で3月から荒浜に行き始めたわけだけど、荒浜に行って、断片的だった思考AとBが繋がったり、はっきりしなかったものがはっきりしたものになったり、
ふつう人間の価値観とか人間性とか世界観とかって言うのは中学生ぐらいでほぼおおまかな部分は完成されるものだろうと思うけど、この1年間はその多感なティーンの時期に匹敵するぐらいのいろいろな思考の変化とか新しい価値観の形成とか認識とかがあった。悪い事があっても良い事もある、そういう事を口では言えるけど、それをまさに実感できた1年間だった。それは砂浜を歩いていたり、吉男さんの小屋をじっと見ていたり、赤貝漁に同行させてもらったりした中でいろいろ感じた。
また今回も優子さんに魚を大量に頂いた。なんでいつもあんなに大量の魚をくれるんだろう?どう考えても食べきれない量なのに。
今回、平床君や會田に分けて初めてわかった。そもそもこれはもらった人がひとりで食べきるべきものではなく、分けるものなんだと。あのひとたちは今までずっとそうやってきて、それをオレらにも同様に行っているだけのことなんだろうと感じた。おすそわけの精神ってこういうことかと思った。オレらがもらったんじゃなく、それをいろんな人にまた分ける、そうするべきものなんだと。
しかもそれらはハンパじゃなく美味い。今回自分の分をキープしなかったことを本当に後悔した。
また、今回は初めて波男さんの小屋に行った。波男さんは不在だったけど。あのケヤキの記念樹の佐藤春男さんの御宅の、近く、さらに奥の方だった。吉男さんが東区の一番端っこ。波男さんは西区の一番端っこ。あっちまでは行ったことなかったなあ。
荒浜に初めて行ったのは今年の3月。なので流される以前の、あの寓話の世界のような荒浜の姿は自分は「イナサ」の中で観ることしかできない。
当然だけど、荒浜は以前の姿ではない。初めて行った時、こういう場所に自分のようなよそ者が勝手に入っていって写真なんか撮ってもいいんだろうか?そう躊躇したが、少なくとも自分が会った何人かの荒浜の方は、それが杞憂だと思わせてくれた。
ここを訪れる多くの人達は、ここを被災地だと認識しているだろう。勿論それは間違ってはいない。でも、自分は被災地の写真を撮りたいわけではない。荒浜はかつて美しい場所だった。自分が撮りたいのはかつて美しかった場所、そしていまでもその美しさを残している場所、未来を感じさせてくれる場所、それが自分にとっての荒浜の意味になっている。ある方は、荒浜をこんなにきれいに撮ってくれて、と仰っていたらしい。とてもありがたい話だけど、特別なことではなく、美しい場所なんだから写真もきれいになるんだと思う。
ここでは過去のものは全て無くなってしまった。多くの場合、人間はおそらく過去の記憶の中に生きている。それが最も都合が良くて心地よいからだ。そういう意味の格言もあったけど。未来への希望という、あてもないギャンブルのような糧で生きられるひとはそうは多くないはずだ。そして多くの人はそんなに強くはない。多かれ少なかれ、それが苦い記憶であったとしてもひとは馴染みのある記憶の中に浸りたがる。それは決して悪いことじゃない。だけどこの街からはその記憶というものが全て消し去られてしまった。
でも荒浜の何人かのひとは未来に向かって生きている。強い意志と誇りを持っているからだと思う。彼らはずっとそうやって生きてきた。そして彼らはそれを誇りとか強固な意志だとも感じてはいない。それらが当たり前のことのように日常を過ごしている。
逆に言えば、街って、そこに拘るひとが何人いるかどうかなんじゃないだろうか。荒浜にはそういう人たちが何人かいる。そしてそのひとたちが小さいながらも新しい世界を造ろうとしている。自分の土地に小屋を建てたり農作物を植えたりしている。大袈裟なコンセプトも考えもなく、ただただ日常の行いに若干のユーモアを添えて造っている。
12月21日はマヤ暦で言うところの世界の滅亡の日だったらしいけど、あんまり面白くない話だと思った。もう日本なんか終ってるようなものだから。荒浜や女川で生まれ育ったひとは特にそう感じるだろう。
殆ど全てのひとは、出来上がった社会に生まれてくる。そしてその完成された社会で生活し、亡くなってゆく。日本のようなシステムが出来上がった社会ならそれは尚更だろう。だから自分の身の回りの世界が無の状態から形成されてゆく姿に接する機会なんてあまり無いと思う。荒浜に行く事とは、その新しい世界が出来てゆく様に立ち会えるということだ。もちろん、それが全てではないことも承知しているつもりだけど。
実際にそこに行ってみなければわからないことがある。だから行った方が良い。よくそういう言い方をする。そしてそれは概ね正しいと思う。
自分は調子に乗って石巻や女川に行ったけど、やはり行ってはじめてわかったようなことがある。
でも、同時に、わかったところでどうすんの?とも思ってしまった。こんな巨大な災害があった場所に、自分の親戚が住む場所だという理由をこじつけて来たけど、自分がバカに思えた。簡単に言うとショックだったから。被災地を見に行こうっていう気持ちがとても恥ずかしかった。自分には何もできないのにノコノコとこんな所まで来てしまった 。あまりにも自分が無力でバカで浅はかで思慮の欠落した人間に思えた。女川の病院から港を観た時の気持ちは忘れないだろう。