my 2nd gpoy

0228

2011年3月に起きたことは、直接的には殆ど被害が無かった自分でさえまだ整理が出来ていないし、整理ができたところで言語や文字で表しきれるとも思えない。

少なくとも荒浜では、とても多くのものが失われた。そのことについて自分なんかがどうこう言える立場でもない。ただ言えることは、自分が荒浜に通う理由、それは、あの日より前から続いているいくつかのこと、あの日以降始まったいくつかのこと、それらを見たかったということなのかもしれない。なぜなら、続いていること、始まったことはいずれも美しく素晴らしいものごとだから。

0221

世界というものはすべて自らの中にある、だから、いわゆる他人というものは自分の中の要素のひとつなのであるという考えに至ることが出来れば、おそらくいろいろな問題はあまり大したものではなくなるのだろう。だけどそこにいくのは相当大変だ。少なくとも自分にはムリだ。

0124

仙台・東北の 出張 手しごと展

こういうものは昔はもろ非日常ではなく、日常の中の季節のアクセント的なものとしてだったり、存在していたはず。

それがいまではおしゃれな場所でおしゃれなものとして扱われている。それについては少し違和感を感じるけども、現代の生活を考えれば仕方ないかとも思う。むしろここでやることの意義の方が大きいのだとも思う。

こういうものがある生活って良いなって単純に思ってしまった。優しくて愛嬌があって柔らかくて粋で、それでいてぴしっと筋が通ってる。でも特別なものであってほしくはない。すぐそこにあるようなものであってほしい。そういうものをどこかに多く置いてきてしまったんじゃないかって思う。そのことに、何となくかもしれないけど、気づいているひとも多いんじゃないかって思う。

0123

物を見るのは精神であり
物を聞くのは精神である
眼そのものは盲目であり
耳それ自体は聞こえない

 

いい言葉だー

0119

今年は既に相模に2度行ってる。目標は26回行くことだから、まあまあいいペース。

だけど、その2回とも嫌な思いをした。昨年はそんなことはあまりなかったんだけど。

この間は3度。サウナ内の入り口横の使用済みマットを入れる箱の真ん前に座ってるひとがいて。洗面台で横でおもいっきりタンを嘔かれて。しかも嘔きっぱなしで流しもせず。もうひとつ洗面台でオレの横に使用済みの櫛を投げるように置いていかれて。それはそれで、まあこういうひともいるよなあ、で収まるようなことだけど。

今回はサウナでウーウー唸りながら転がって、最終的に一番下の段のテレビの横で動かなくなってしまった人がいた。この人と、このときにサウナにいた人のお陰でとても嫌な思いをさせられた。

相模は年齢層が高いんだけど、嫌な思いをするときはだいたい相手は老人だ。視界が狭くなるっていうか。自分の行いが他人にどういう影響を与えるのか全く考えなくなるというか。そのお陰でこっちは相当にイヤな気分になるのだが。

0114

夢にエージが出てきた。何でか知らないけどiPhoneのコードか電源部かなんかをみてあの笑顔でグフッって笑った。その瞬間夢の中でハッとして泣きそうになった。次の瞬間目が醒めた。心臓がバクバクだった。

最近エージの話が良く出る。こないだのきよしくんちでも2〜3回話題になった。来てるんじゃない?ってカナが言ってた。死後の世界は存在しないとホーキング博士は言ったそうだけど、亡くなったひととの繫がりっていうのは当然だけど死後の世界ってこととは異なる。

0112

荒浜に通って自分なりにある考えに至った。ひとはおそらく誰でも大切にしなければならないものがあるということだった。だから自分にもあると。ひとつぐらいは大切にする対象を持てよと。

それが何なのか、なんとなくはわかるとしても、じゃあそれを大切にできているのか、することができるのかっていえば、それはやはり簡単ではない。もはやそれは一生を費やす問題だ。

吉男さんはそういうことをいとも当たり前かのように淡々と日々を送っているようにみえる。簡単なことではないに決まってるけど。

0110

フロに行って、3度イラッとした。

他の客の行いに対して。その人に直接文句をいったりするようなことはしないけど、なんでああいう公共の場所であんなことをするんだろう。こういうことをすれば他の人がどう思うかって、自分はそれをよく考えるけど、そういうことを全く考慮しないで日々を送れるって、逆に考えれば自分から見れば羨ましいとさえ思える。ああいう場だから余計マナーとかそういうことに気をつけなきゃならないと思うんだけど。

考えてみれば、そういうことをするのって多くが自分よりも年長のオッサンだ。社会に何十年もいるのだから公共の場所でのマナーとかそういうことに対してわきまえていると思いきや、そういう人ってだいたいオッサンが多い。何でそうなるのっていうことがあるけど、なんでそうなるの、っていう人が多いからだと思う。しかもそういうひとの行いって天然でそうなっている。わざとそうしてるんだったら自分ではわかっているわけだから逆に救いがある。でも何とも思ってないで天然でそうしてるんだったらもう救いはない。たちが悪い人っていうのはそういうひとのことだろう。

1230

経済は世の中のほとんど全ての基本となるものだけど、この2年荒浜に通い、経済だけでは幸福は得られないこともあるってことを知った。経済とは本来手段であるべきだと思うけど、現在は経済が目的になってしまっている。

同時に、経済だけでは幸福になれない世界、それ以外の幸福の世界っていうものがおそらくあるのだろうって思うようになってきた。そういう世界の実現に向けて何かできることがあるのなら、それを追求したいと思う。

荒浜に行って感じたことは、簡単に言えばアクティブでなければならないということだ。例えば、無農薬野菜を買う。これ自体は特にどうこう言うべきことではないけど、そういうものが良いと思うのなら、自分でそういう野菜を作るべきだと思う。考え方としてはこれからはそうしなければならないと思う。もちろん、大変なことではある。だけど、そうしなければ世界は変わらないと思う。いま、世界は変わるべきなのだと思う。

1229

友人宅で餅つき。昨年の同じ日にも誘ってもらった。嬉しい限り。

思えば、あのひとに最後に会ったのがここだった。

その後、そのひとは5月に亡くなった。 自分は、そのひとが大 嫌いだった。餅つきの際にも少し嫌なことがあり、もう二度と口きくか、そう思った。

そしたら亡くなった。

亡くなったらアルバムが出たり、トリビュート盤が出たりする。その人のことは好きではなかったけど、そのひとやメンバーがどんな気持ちでバンドを続けていたのか、自分なりに理解はできる。あのひとは自分が死んでから評価されたいと思っていたのだろうか。なぜ生きている間に評価できなかったのか。なぜ死んだらこうも全てがきれい事になるのだろう。

生きるって事は混沌の中で生臭い血の匂いをほんの少し嗅ぐってことだ。そしてそれは生きている間にしか経験出来ないことだ。

だから自分はセシル・テイラーの意味不明なような演奏に生を感じるし、リストカットをする人が血を見るとホッとするっていうのは、普段は感じることは出来ない、見たくない、見ちゃいけない、隠されているもの、汚いとされているものの中に生があるってことなんだろう。そして、終わってしまえば全ては物語になってしまう。物語になるってことはある意味、美化されるってことでもある。アホか。

«‹ 2 3 4 5›»

↑