my 2nd gpoy

0501

サウナの温度と自分の体温と水風呂の温度、これら3つがすべてフラットに感じられることがある。サウナが熱くなく、水風呂が冷たくなく感じられるようになる。これをシンクロニシティと呼ぶんだけど、この状態はなかなかやって来ない。季節もあるし、最初のサウナに入っている時間、サウナの温度など、なかなか条件が揃わないし、そもそもどういう条件が最適なのかもいまだわからない。今日はそれに近かったんだけど
若干のぼせたようになってしまった。気温が高かったせいなのか。サウナにはもう20年近く通っているけど、サウナはますます奥が深くなっている。ますますわからなくなっている。

0422

最近また、金八パート2をよく観ているのだけど、この頃のドラマは作りが雑っていうか、セリフをとちってもそのまま使ってるのが多い。生徒役で出てる人たちも今とは違って半分素人みたいな人も多いからセリフなのか素なのかよくわからないようなやりとりも多い。おそらく武田鉄矢もアドリブがかなりあるんだろうと思う。だから、半分ドキュメンタリーのような気もする。武田鉄矢が明らかにマジで怒ってるようなシーンもいくつかあるし。

そう考えると今はもうこういうドラマって無いな。金八はもともとメインの生徒役はジャニーズとかだったからキャスティングは多分に政治的だけど、このシリーズのメインの直江喜一はメジャーではなくある意味インディーズだし、直江喜一のカウンターの破壊力は今観てもハンパじゃない。

0331

もう4月か、

ちょうど桜が咲けば、それは自分にとっては大きな別れを意味する。もう何年になるんだろう。またその時期が来るんだって。いいことだとは思わないけど、受け入れたくないことも過ぎてしまえばそれに慣れてきてしまう。

0326

人間が人間でいられる所以のひとつは記憶だと思う。記憶を全て失くしてしまったらある意味、もうそのひとじゃない。

記憶の置き場所っていうのは自分の中にだけあるものではなく、服だったり持ち物だったり場所だったりと、自分以外のところにもある。むしろ、記憶って多くの場合、ものや場所に、置き場所がある場合が多いんじゃないのかとさえ思う。アイデンティティって言ってもいいかもしれない。ひとは自分の中にだけアイデンティティを持っているわけじゃない。

ひとがひとでなくなっていく様、ひとがひとでなくなってしまっても、脳と心臓が機能を停止するまでは法律的、生物学的にはまだ人間として扱われる。だけど、その状態はもはや社会的には人間じゃない。

0325

ユニクロでクラッシュのロゴとか無線衝突のデザインのTシャツを売ってた。ニルヴァーナのもあった。

クラッシュとかデッドケネディーズのTシャツを着るっていうのは、大袈裟に言えば、姿勢の表示だと思ってる。だけどユニクロで売られてしまうとそうはいかないだろう。その絵柄が何を意味するかっていう以上に単なるデザインになってしまう。

ユニクロでクラッシュのTシャツが売られるってことは、自分にとってはファッションが持っているメッセージ性の終わりを意味する。

ファッションてそういう側面もあるし、こんなことは一般的にはどうってこともないのだろうけど、自分にとっては、クラッシュについて何も知らないひとがクラッシュのTシャツを着るのは許しがたい。

0320

サウナが流行ってるってどういうこと?

相模に行ったらレジの横にサウナーっていうムックと3.7 SAUNA DAYっていうタオルが。

オレが田舎の大物書いてたのってもう15年前でしょ。それ以来、多少のブランクはあれど、ずっと相模に通ってるし、流行りもなにもない。

オレは早かったのか?時代が追いついたのか?世の中的には喜ぶべきことなのかもしれないけど、オレ的にはどーでもいいわ。流行なんであればどうせすぐに終わるんだから。でも♨も相模も変わらない。ずっと変わらないし変わってない。周りが変わるだけだ。

0319

 

夜中 帰りに駒沢公園を歩いていた。最近また不眠症っぽい。気候的な要因もあるのかもしれない。いろいろと気が重い。来るべきものが来たっていう、言ってしまえばそれまでなんだけど。

0318

やっぱり人の視点なんてひとつしかない。だけど時にいろんな理由でその視点がなくなってしまう。今度は別の視点から観てみると、ちょっと違って観える。また別の視点から観れば、全く違う様が観える。しかしそれを知ってしまうことは若干ショックなことでもある。いままで白かったものが黒く見えることもあるし。

自分の視点はひとつしか持ち得ないのだろうけど、いろいろな視点を知ることは出来るだろう。どうせ頭が硬くなってバカになってゆくしかないのだから、いろいろな視点を得ようとしなければ可哀想なことになるのだろう。与えなければならないし、同時に受け入れなければならない。

0317

江戸アケミという人が、かつていた。もう20数年前に。自分は一度だけ彼に会ったことがある。その頃自分はビブラストーンというバンドを追っかけていて、そのギタリストのOTOさんは江戸アケミさんのバンド、じゃがたらのギターでもあった。その時はちょうどじゃがたらは活動していなかった。ある時、誰かのライブだったと思うけど、たまたまOTOさんとアケミさんが一緒にいたところに自分もいた。会ったというか、同じ場所にいたというか。

江戸アケミさんはそのしばらくあとに、風呂の浴槽で寝てしまい、空焚きされて全身をやけどだか溺死だか、というちょっとよくわからない状態で亡くなってしまう。ふつうその途中で目が覚めるんじゃないかって思う。
自分は結局じゃがたらを観ることはできなかった。いまとなってはかなり残念だけどYouTubeでしか観ることはできない。

おそらく江戸アケミというひとは境界線を行ったり来たりしていたひとだった。人間とは何かって考えて、その結果人間とはウンコだということになり、ウンコを食べたらしい。ミュージックマガジンかなんかのインタビューでそう語っていた記憶がある。狂ってるというか、逸脱した人だった。おそらく、こういう人が身の回りにいたら面倒くさい事もあっただろう。だけど彼は時に強烈な光を放ち、輝いた。それは直視できない程に眩しく、時には毒を放つ光だった。そしてそれは闇を闇として照らす不思議な光でもあった。

かつて、おそらく、世界はもっと広かった。世界を円に例えるなら、その直径を広くし、円の外周当たりに位置していたのは江戸アケミのような人だ。彼のような存在こそが、世界に拡がりをもたせていた。だけど、彼のように意味不明で、メチャクチャで、混沌として、時に面倒くさくて、良いのか悪いのかよくわかんないような人はどんどん減っている。彼らが不在の世界は、その分だけ確実に狭くなっている。人だけじゃなく、そういった物事自体がどんどん減っている。2011年以降更に減ってきている気がする。あまり理解度を必要としないものだけが受け入れられる世の中に。黒と白との間にあるグレーは必要ないものとされてどんどん排除されていっている。それは、そこに生きる我々の経験というものが少なくなっている、ということをも意味する。残念だけどそう強く感じる。

0311.2

3月11日、荒浜に行った。
初めて荒浜に行ったのは12年の3月下旬。この2年の間に何度も通った。
この日荒浜に行った理由は、高山さんがHOPE FOR Projectという名で行っている、この日に風船を飛ばすイベントに参加したかったから、というかそれを一度観たかったから。
この日は晴れていたけど冷たい風が強く吹いていて、かなり寒かった。まだー南東からの風ーイナサの季節には早いようだった。

行くまでは、この日のことをちゃんと書こうと思ってて恥ずかしながら大袈裟に下書きもしてたんだけど、実際にこの日を過ごすと、何を書いていいのかわからなくなった。書く必要があるのかとも思ってしまった。この日ここにいたということが総てで。それ以上のことをああだこうだと書くことは別に必要ないのではないかって。

風船のイベント、ライブ、共に良かった。でも誰かに、荒浜どうだったー?って聞かれたら、良かったよー、それしか応えられないと思う。
不思議とそれ以上の表現が出てこない。そこにいていいな〜ってその場で感じて、それで充分なんじゃないかって思う。それ以上それを説明する必要もないんじゃないかって思う。どうでもいいというか。いろんな断片的な気持のようなものがある。でもそれらを繋いでひとつにしようとは、今は思わない。散らばっているものを片付ける術を知らないし、片付ける必要を感じない。なんというか、自分の中にはあの日のあそこでしか感じることができない感情があって、それを言語化出来ないし、する必要も感じないというか。それはそれでとっておくというか。
多くの場合、経験は言語化されるし、言語化されてそれがまた新たな経験となる。でも、言語化しない方がいい、出来ないような経験、体験もある。言語化するっていうのは定義して記号化するってことだとすれば、今回のことは定義する必要性を感じなかったということかもしれない。それが今回のことだったように思う。

ただ一つ言えることは、自分はこの日荒浜で過ごしたことを忘れはしないだろうし、また荒浜に向かうだろう。

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