my 2nd gpoy

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銀座のニューキャッスルというカレー屋に行った。ここに初めて行ったのはもう25年ぐらい前。それがつい2年ほど前、閉店した。家族経営のような店だったので致し方ない。

味は、辛さの中に甘さもあり、そこに半熟卵をのせたもの。基本的に量が少ないので、最も量の多い、しかもメニューには載ってない「つん蒲」っていうのをいつも頼んでた。銀座って高級なイメージがあるけど、裏の方に行くとこういう昔からある家族経営的な店もある。だけど、当然だけど、どんどん減っていってる。

この店の閉店の報をネットで知ったとき、これが、自分が属する世界の一部だとするなら、世界はどんどん崩壊していってるって感じた。そしてそれは戻らない。

新しい店の味は、以前と全く同じではない。限りなく以前の味に近いんだけど、以前の味ではない。だけど、それを言う以前に言わなきゃいけないことがゴマンとある。続けること、再興することの大変さ、意味などを。それがいかに尊敬に値するかを。

最近思ったんだけど、アナログレコードにあったものって、匂い、触った感触、それが中古で、以前の所有者のサインとかメモとかがあったら、それはもう経験であり体験でもある。ジャマイカ盤とかブラジル盤、アフリカ盤とかだったら変な匂いがしたり、ジャケットがジメッとした感触だったり、色の版がズレてたり、穴も中心からズレてたり、ノイズが大きかったり、そういうことを全部ひっくるめて経験だった。だけどCDにはそういう意味での経験的なものはほぼない。

思えば、世の中からアナログレコード的なものがどんどん消え去っていってる。匂いと感触と体験を持ったものが。きったねえものが。
だけど、アナログレコードを2000枚持ってるとする。それを収納すればそれはもう壁一面になる。だけどそれがデータならハードディスクひとつに余裕で収まる。デジタルの時代になっていろんなことが格段に便利になった。だけどその対価なのか、いくつかの経験が失われてしまった。たまにそのことに対してノスタルジーのような感情を抱いてしまう。その感情、感触を残そうとしている人も多くいることも事実だ。

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今年は2回風邪引いた。今までは、2年に一度しか風邪ひかなかったのに。

しかも、生まれて初めてなんじゃないか、悪寒という感覚は。体が熱いのに寒気がするっていう感覚。その時の熱はわからないけど、翌朝に測ったら38.6℃だった。前の晩よりは少し熱は下がっていたと思うけど。

一般的には38.5℃以上は高熱と呼ぶらしい。思えばこんな熱も出たことなかったと思う。

そして、治るまでに3週間近く要した。郷くんは、年々風邪が治りにくくなってるって言ってたけど、治りにくいだけじゃなく引きやすくなってるっていうのがショックだわ。

毎年12月は膿が出るように体調も精神状態も悪くなる。今年もまさに。それで来年からバリバリになればいいのだけど、そうもいかないからな。

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音楽を評価する基準のひとつに、違和感というものがある(これは音楽に限らないけど)。自分の中では違和感とカッコ良さとは近い。
この映像の強烈な違和感………,もちろん最高にカッコいいってことだ。

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リストカットをするひとは、血を見るとホッとするそうだ。あるいは生を感じるんだそうだ。セシル・テイラーの演奏を観たらなぜかホッとした。パッと聴くとメチャクチャな演奏、だけどずっと聴いていると強烈な生というものを感じる。これは血のようなものなんだろう。自分にとってはこれがリストカットの代替のようなものなのか。リストカットという行為そのものはあまり褒められたものじゃないし好きではないけど、それを行う意味については充分理解できるし、ある意味ポジティブなものだという気もする。

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ひさびさにソロで相模へ。ソロはまた違った引き締まる感がある。イイわ。

レム睡眠の時に考えたこと(いわゆる夢)とか風呂に入ってる時にとてつもない良いアイデアが浮かぶことが多いので日記のように書き留めてて、そうすると夢とかを忘れずに憶えられるようになるんだけど、それをやらなくなったら案の定記憶出来なくなってきた。

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この世の中が平和になって欲しいと思うけど、ムカつく奴は多くいる。

 

人間は誰でも少なからずいくつかの人格があるのだと思う。少なくとも自分はそう。こないだそれを言われたのだけど、それは以前から自分でもわかってる。文章を書くときのテンション、それ以外でのテンションはおそらく自分の中では違うと思う。

2つぐらいの人格だったら誰でも持ってると思うんだけど、多重人格が病気のように言われるって事は、そうじゃないのかな。それは必ずしも悪いことでも無いようにも思えるし。

ただ、人格と人格との間を行き来してることをわかってないのなら、それらを俯瞰してというか客観的に認識できないのなら、それは問題だけど。それは害でしかないだろう。

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エリオット・スミスにはおそらく2度会ってる。だけど彼はその後アル中になって自殺してしまった。

その後、あるときたまたまどっかで元彼女に会ったときに、たけちゃんが撮ったから死んじゃったじゃん、殺したでしょ!って言われた。彼女はそういう冗談をよく言ってたのでそれももちろん冗談が半分なんだろうけど、全く笑えなかった。むしろかなりのショックだった。正直泣きそうになった。彼女がなぜそう言ったかというのは、自分が撮ったのがそのひとの最後の写真になった、というひとが何人か続いて、オレが撮ったひとは死ぬらしいって一時期言われたことがあったからだったと思うけど。もちろん、そんなこと名誉なことじゃない。殺すぐらいのつもりというか勝負のつもりで撮ってるけど、殺すことが目的じゃない。そんなこと当たり前だけど。

自分はエリオット・スミスが好きで彼の写真を撮った。自分にとってとても好きな写真だしブックにも入れてる。だけど逆の立場で言えば、そんなことは本人にとっては憶えてもいないだろうし、なんらいいことにはならなかったわけだ。自分が好きで会って撮ったひとは、そのひとにとっても自分が撮ったことがほんの少しでも何かポジティブなことになればいいといつもそう思ってるけど、そんなことはこっちの勝手な思い込みでしかないってことだ。そういうことをグサッと言われて思い知らされた。人生の中でたった10分ぐらいの時間を共有しただけ。自分はそのことをその後もエリオットスミスに会ったよ、って言えるけど、せいぜいその程度のことであって、自分が彼のその後の人生を背負って生きていけるわけじゃない。そんなの当たり前なんだけど、それはやはり虚しい。無力感ていうか、無力に決まってるんだけど、どっかで僅かながらの期待とか希望とか、根拠のない積極的な何かを持って生きている訳だけど、時にこういうタイミングでそれを真正面から突きつけられる。それは写真にその写真以上の意味とか何かを求めてるからかもしれないと、最近思う。

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NHKで日曜の23時30くらいからやってる韓国の時代劇。ランドの大広間で2週続けてこれが流れてて、こんなの誰が観るんだろうと思ってたら、年配のグループが一心不乱に凝視してた。あそこでスポーツニュースに変えてくれって言ったら抗議されるんだろうな。

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製品としては、欲しいか欲しくないかって部分ではあまり興味が湧かないのだけど、それをリリースしたことに対しては意味があるのでは、と思うようになってきた。

ニコンが過去のニコンのカメラをリメイクしたみたいな。マスプロダクションの中では中々出来ないことではある。振り返るべき遺産みたいなものを当の本人が提示することにも意味を感じる。

カメラの歴史はもう100年以上ある。それは写真の歴史と同意義でもあり、その殆どはフィルムの歴史でもある。でもこの20年はカメラの歴史は機械とフィルムのものではなくてコンピューターのチップのものになってしまった。そうなってから、自分もカメラという物に思い入れを持ちたくなくなってきた。どうせパソコンの部品みたいなものなんだから、という割り切りが必要だと思うようになってきた。パソコンは好きだけど、それはハッセルが好きとかプラウベルマキナとかディアドルフが好きとかいうのとは意味が違う。
そして最も大事なのは撮影という行為自体であるべきだと考えるようになってきた。ていうかそうでなければいけないと。

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