0831
夏は一番嫌いな季節。早く終わって欲しい。でも、秋って短いよな。本当に心地良くて過ごしやすい季節って短い。
嘉手苅林昌を聞いて、いまはもうない沖縄に行きたいと思う。こんなに音数が少なくてなんでこんなに良いんだろうって思うけど、曲とか歌が良ければアレンジは最小限でいい筈。
世の中全てに於いてアレンジは大事だけど、殆どにおいて過多なことが多い。それによって良いものもゴテゴテしてしまう。もったいない。これが自分にとっても最近のテーマ。
夏は一番嫌いな季節。早く終わって欲しい。でも、秋って短いよな。本当に心地良くて過ごしやすい季節って短い。
嘉手苅林昌を聞いて、いまはもうない沖縄に行きたいと思う。こんなに音数が少なくてなんでこんなに良いんだろうって思うけど、曲とか歌が良ければアレンジは最小限でいい筈。
世の中全てに於いてアレンジは大事だけど、殆どにおいて過多なことが多い。それによって良いものもゴテゴテしてしまう。もったいない。これが自分にとっても最近のテーマ。
4年前に友人が亡くなった。たまたま彼が亡くなる3日前に、彼に会った。その時の彼は死にそうに見えた。ちょうど、ある理由でかなり落ち込んでいたらしかった。
彼は落ち込んだままその3日後に心臓発作で亡くなった。亡くなったことに関しては驚きはなかった。こいつ、死ぬんじゃねえか、そう思ったから。だけど、ショックだった。こんな終わり方ってありなのかって。彼が悩んでいた理由、その原因を多くのひとは知らなかったようだったけど、自分はたまたま知っていた。その時に思った。友人がそんなに悩んでいても自分はそのことを全く知らなかった。それって友達って言うのだろうかって。そのことが後ろめたかった。とても申し訳無かった。それ以来、自分だけがハッピーになっても意味ないんじゃないかって思うようになった。自分の周りもハッピーにならなければ本当のハッピーとは言えないんじゃないかって思うようになった。
あるとき、彼が80まで生きたいって言ったのをいまでも憶えている。最近毎日のようにそれを思い出す。彼はもっと生きたかったはず。だけどその半分も生きられなかった。
その友人の話と荒浜とは全く違うけど、同じようなことを思う。世の中がオリンピックだアベノミクスだって方向に勝手に走り、忘れ去られてるかのような荒浜とその人達。そういう中で自分だけがハッピーになっても何の意味もないっていうこと、というか、そこに意味を求めちゃいけないと思うようにもなった。ほんの少しでも荒浜のこと、荒浜とその人達が象徴するような何かについて想ってもらいたい。
生きてるのか生かされてるのかたまたま死んでないだけなのかなんなのかわからないけど、まだ生きてる、息してるってことは、二酸化炭素を垂れ流す以外にもやらなくちゃいけないことはあるはずだって思うようになった。150%で突っ走るぐらいがちょうどいいって思うようになってきた。でないといろんな人達に対して申し訳無いっていうか。
そして世の中は絶妙なバランスで成り立っている。いまあるもののたったひとつでも欠けてしまえば、もうこの世の中はいまと同じものではなくなってしまう。そのことを2011年3月に強く思い知らされたはずだ。良くも悪くも、あの時からいろんなことが変わったと思う。いまあるものをより大事にしたいと思うようになったし、縁というものを強く感じることも多い。最近特に、その中に自分がいる感覚がある。
札幌でのplaces & spacesも幡ヶ谷のRe:Birth Studioも今度のスリラバでの写真展もそういったことが繋がって成り立っていると強く感じる。自分というものは自分ひとりで成り立っているのではなく、周囲との関係があって初めて社会の中で自分でいられるはずだ。それを大切にしたいとも思うようになってきた。次の写真展についてもそういう気持ちがある。
自らに正直であろうとするために、他人に嘘をつくことは許されると思う。
だけど、自らに嘘をつくために他人に嘘をつくことは許されないと思う。
知り合いが亡くなるっていうのは、自分という木の枝がもがれていくような気持ちだ。自分を形成してるのは自分だけじゃなくて、そういう周りの人との繋がりがあるからこそ。自分が幹なら、友人知人は枝や花になってくれている。
最近、死を受け入れる必要は無いんじゃないかって思えてきた。社会の中での死とは、決して自分とそのひととの関係の終わりではないような気がしてきているから。
ありがとうとか安らかにとかも言いたくはない。できるなら生き返ってほしいし、もう一度会いたい。そういうことって常識的な考えじゃないのかもしれないけど、そう思っちゃいけないってわけでもないでしょ。頭ではわかってても、気持ちでは受け入れられないものなのだから。エージの時以来ずっとそう思ってる。
毎日こうやって、惰性だとしても生きるって事は、少なくとも友人や知り合いが亡くなるのを知らなければならないってことでもある。しかもその多くがまた会いたい人、永く生きててほしい人。生き続けてるやつはどうでもいいやつばっかりになってくる。マジで。
以前ブラストで撮影したキエるマキュウの写真は、自分でも気にいってる写真のひとつ。
自分がなんで生きてるか、なんのために生きてるのかは知らないけど、猶予も余裕もない。絶えずスピード違反しながら走らなきゃいけないような気になってる。ここんとこずっと。
札幌から帰って、まだ夏にはならないからと思ってたらいきなり梅雨が明けて焦った。
いまさら我々に太古の時代の生活ができるわけがない。現代文明のお陰で、iPhoneのお陰で現代人は生きられる。
でも、失われたものの豊かさ(それを豊かさと言ってしまていいのかどうかって気もするけど)を想うと、現在残されているそういうものの欠片を感じることはやはり大切なことなのだなと思う。それは白老でも感じたし、荒浜でも同じようなことを感じた。時が流れ、時代と共に、時には天変地異で、いろんなことが否応なしに変わらざるを得なくなっている。
そんなことを考えながら東京に戻って、たまたま森山大道の個展を観に行く。凄い絵ばっかり。自分をグサッと刺しながら撮ってるみたいな。会場をあとにして運転してたら東松照明の沖縄の写真(カラーの方。モノクロの例のやつじゃない)が浮かんできた。あんな写真撮りたいなあ。本島から外れればああいう光景がまだ残ってるんだろうか。
梅雨が明けたって?ありえない……………..あと2週間ぐらい雨が降ると思ったのに。夏は一番苦手な季節………………..
ナショナルフォトにプリントしにいく。すると森山大道の個展のお知らせが置いてある。知らなかった。しかも行ってみると、同じ建物には山根の画廊があった。
森山大道のオリジナルプリントって実は観たことないかも。でも、モノクロの粒子が粗い写真って、実は印刷である程度再現出来てるような印象がした。柔らかいカラーのベタっとしたのとかは絶対に印刷じゃ再現出来ないけど。
とにかくまあ、なんでこんなに狂ってるんだろうかってぐらいに狂ってる。しかも現役でサバイバーで。凄すぎる。
借りたレンタカーはきったねえマーチだった。ステレオから音を出す方法がわからず困る。するとUSBって書いてある。iPhoneを繋ぐといきなり永ちゃんがかかった!富良野まではずっと永ちゃんだった。往復で約6時間かかってしまい、五郎さんの家に3つ行った以外は何も出来なかった。残念だったのは、上富良野のラベンダーを全くスルーしてたこと。翌日美砂さんに言われて思い出した…………また来年行くしかない。
でも、五郎さんの家はどれも良かった。なんか気持ちが入ってる家っていうか。北の国からのことはほとんど知らないんだけど。
ちょっと寄り道して食事をする時間もなく、芦別の道沿いの名物、ガタタンていうのを食べる。ドロッとした、中華丼のあんかけの部分のあんだけのスープみたいなのがガタタンらしいんだけど、それ自体はメニューにはない。ガタタンチャーハンていうのを頼んだら、あんかけのなかにオムライスみたいに卵焼きの下にチャーハンがあった。ガタタンとチャーハンが別皿だと思ってたんだけど。會田はガタタンラーメン。ガタタンスープの中に入ったラーメンだった。なんでガタタンの単品がないんだろう?ガタタン丼すらもない。なんでわざわざ物事を複雑にするんだろう?そんな必要どこにもないのに。