my 2nd gpoy

0609

彼女はオレよりいくつも年下で、美しくしかも明るかった。あの頃の飲み会にいっつもいた。

いつだったかいきなり電話がかかってきて、そのまま何人かで厚木の奥の方の温泉に行ったことがあった。猪鍋って言うのは殆どはイノブタなんですよ〜って女将に言われた。

たまたま恵比寿か中目黒かどっかでバッタリ会って、その時彼女が住んでいた野沢の部屋まで一緒に歩いたこともあった。

その後結婚、出産して調布の方に引っ越したとかで、恵比寿らへんにはもうあんまり顔出さなくなっていた。そりゃそうだよね。

3年前のライブで久しぶりに会った。子供を連れていた。

そして、地震の1ヶ月後に旅行先で倒れて亡くなった。

死っていうのは逃げられないもの、絶対にやって来るものだけど、ある程度近いうちにそれが予想される人に訪れるものだと思っていた。順番みたいなものがあると思ってた。若くて美しくてハッピーな女性にはいきなりはやって来ないものだと思っていた。でもそうじゃなかった。

彼女は、子供達の成長を見守りたかったはずだ。でもそれは途中で叶わなくなってしまった。

この世の中は生きている人たちが良くしていかなくちゃならない。だけど、時々生きていることが恥ずかしくなるっていうか。死にたいとは思ったことはないけど、別に生かされてるとは思わない。自分にそれだけの価値があるとは思わない。じゃあなぜ生きてる?その意味を探すことが辛い時もある。

この世の中が食い物にされていると思う。まさにバビロンというか。ずっとそうだけど、今まさにそう思う。特にこの数年そう思う。

0608

最近、考え事をするのはもっぱら運転中。じっと座っててもアイデアは浮かばないことに気づいた。

で、運転してたらサウナに入りたくなり相模に行った。ちょうど1時間弱の距離が考え事をするには適当。

ひとりで相模に行くのはかなり久しぶりだと思う。

帰りにびっくりドンキーに行く。全然美味くなかった。自分がオーダーしたものが悪かったのだろうか。炭酸が飲みたかったんだけど、コーラがメニューからなくなってた。どうしたんだ………………….

0605

渋谷でエゴラッピンを観る。

よっちゃんと知り合ったのはほぼ12年前。彼女が東京に出てきたばっかりの頃だったそう。

ライブを観るのは3回目ぐらいだけど、こんなに感動したことは無かった。

よっちゃんの歌、森さんのギターをはじめ、音楽的な部分は勿論全て素晴らしい。

彼女はもちろん様々な努力を重ねてあのステージに立っている。だけど、生まれた時からそうだったように自然でもある。

0530

現実とはいつもこうやって我々の気持ちというものを置き去りにしてゆく。そしてまた、埋めようのないギャップだけを残してゆく。一生かかっても我々はそのギャップを埋めることは出来ないのに。そのことを気持ちの中で整理することは到底出来ないのに。

プールサイド、なぜだかわからないけど、ふっとこの曲が浮かんできた。

0523

続けるということは、疑わないということ。迷わないということ。そして、覚悟があるということ。その覚悟を持ったひとたちにあいにゆく。

0519

友人の娘のピアノの発表会。娘は幼稚園児。その発表会は基本的には幼稚園児や小学生の生徒の発表会。30名ぐらいに子供が2分づつ程度弾くんだけど、正直あまり面白くはない。後半は客席の後ろの方で寝てた。

そしてその最後に出てきたのが老婆だった。80、あるいは90歳ぐらいの。子供は舞台の前方、1段の段差を上って舞台に上がるんだけど、その老婆は段差は上れないらしく、後方のスロープを、しかも介添人がいないとなかなかひとりでは上れないらしい。手も震えているような調子で、一体この人が何を弾けるんだろう、正直そう思っていた。ピアノに着席するのもひとりでは立ちゆかないのだから。

彼女がピアノを弾いた瞬間、ビビッた。音が子供のそれとは全く違う。なんか音が全体的に柔らかいし優しい。当然、打力が弱いんだろうからアタックは弱いはず。だけどそういうことじゃない柔らかさがあった。技術的にはそうは上手くはない。だけど、その人の音でしかないというか。やっぱり2分程度の演奏なんだけど、音楽っていうものはまさにこういうものだった。

0502

フロに行ってどんなに気持ち良くても、それは一瞬のことだって気付いた。

でもフロはいつでも、その瞬間が永遠に続くんじゃないかって思わせてくれる。いつもそう。でも帰りの車ではもう元に戻っている。こっちも、いつもそう。

0428

ガルニの15周年のライブに行く。

久しぶりに色々な人に会った。

こういう、ささやかではあるけれども大切な機会、それはエージが残してくれたもののひとつなのだと思うと、そこには何物にも代え難い価値がある。

0425

ぼたんの誕生日。この子達が大人になった頃、世の中が今よりももっとマシになっていることを望むばかりだ。

0423

優れたアートは確かに日常というあんまり代わり映えしない世界を認識するのに異なったヴィジョンを提示してくれる。だから、ほんの一瞬でも世界の全てが新鮮にみえる。

だけど、強烈過ぎるアートは時に無力感を味あわせる。マイルス・デイヴィスとか草間弥生のように。

マイルスの1970年のフィルモアのライブを聴いた時、自分は音楽をやってなくてよかった、これを超えることなんて出来ないから、そう思ったけど、いや、それでも自分にしか出来ない何かがあると信じてやる、そうミュージシャンの友人は言った。

そうなのかもしれない。自分に当てはめると、写真だったら同じことが言えるかもしれないと思いたいから。

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